< 東日本大震災 良かったニュースのピックアップ kenji145のひとり言日記
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東日本大震災 良かったニュースのピックアップ
 東日本大震災のテレビや新聞のニュースを見ていると、とてもつらい気持ちになります。そんな中、よかったなと思えるものをピックアップしてみました。時間が経つと消えてしまうかもしれませんので、ここに一応残しておこうかと…。もっとたくさんあると思いますが、目に付いたもののみ。

津波の中で抱きしめた 母娘3人、35分の生還劇
http://www.asahi.com/national/update/0328/TKY201103280485.html

 聞き慣れない着信音が携帯電話から響いた。
 11日午後2時45分すぎ。
 岩手県山田町の平屋建てアパートに住む主婦、小田島朋美さん(28)は携帯の画面に目をやった。
 「緊急地震速報 強い揺れに備えて下さい」
 画面を見ると同時に、激しい揺れに襲われた。
 「コタツの下に隠れて」
 夫の宗史(むねふみ)さん(31)は仕事で不在。長女の侑胡(ゆう)ちゃん(4)と次女の侑杏(ゆあ)ちゃん(3)に声をかけた。
 ガチャン。茶わんが流し台に落ちて割れた。棚のグラスが飛び出し、破片が飛び散った。
 「ママー」
 揺れが収まると、2人の娘が飛びついてきた。部屋の窓から外を見た。駐車場の地面がひび割れていた。近所のお年寄りが外に飛び出ていた。
 「すごかったですねー」。「津波が来ています。避難して下さい」という役場の放送が聞こえた。
 携帯が鳴った。実家の青森県八戸市の母親からだった。「大丈夫?」。次に地元の親友から電話がきた。「こっちはケガないよ」と答えた。
 親友と話しながら外に出た。アパートは海岸から数十メートル離れた高台にある。ふと、民家と民家の間に目をやると、真っ黒な水平線が見えた。家の1階と2階の間くらいの高さだった。
 「目の錯覚?」
 事態がのみ込めないまま、電話口の親友に叫んだ。
 「津波が来た!」
 電話をズボンのポケットにしまった。波に民家が倒される「グシャッ」という音が背中で聞こえた。
 「侑胡、侑杏、早く!」
 アパートに戻り、玄関口で2人を呼んだ。長靴を履かせ、ドアを開けると、道路が水浸しになっていた。

■この手は絶対離さない
 「ここからは出られない」
 長靴を履いたまま、廊下に上がり込んだ。
 ガシャーン。窓ガラスが水圧で割れ、猛烈な勢いで水がなだれ込んできた。
 「だめだ」
 海と反対側にある別の窓から脱出しよう。そう思った瞬間、その窓からも水が入ってきた。玄関のドアが下からめくれ上がり、水が一気に長靴の高さまで流れ込んだ。
 「ママ、しゃっこい(冷たい)」
 侑胡ちゃんの声を聞き、2人の娘を抱き上げた。
 海水が渦を巻き、コタツが浮き始めた。
 「子どもたちが先に埋もれてしまう」
 2人のお尻を両腕で支え、さらに高く抱き上げた。それでも水位はどんどん上がっていく。長靴がストンと落ち、足が床に着かなくなった。
 「私たち3人、こんなに早く死ぬんだ。人生あっけなかったな。こんなので死ぬんだ」
 高さ2メートル以上の天井に頭がつき、3人とも水没した。脇腹で、2人が足をバタバタさせているのを感じた。
 「苦しいんだね。ごめんね、ごめんね」
 何度も謝った。水中でのどの奥の空気をのみ込んだ。
 「どうせ死ぬなら絶対離れたくない。この手は絶対離さない」
 2人の体をギュッと抱きしめた。静かに楽になりたいと思った。

 どのくらいたっただろうか。つむった目の上が白んできた。
 「脳に酸素が行かなくなったのかな」。遠のく意識で思った。
 目の上がさらに明るくなった。口を開けた。息が吸えた。目を開けた。ぐちゃぐちゃの部屋が目に映った。水が引き、足は床に着いていた。
 「えっ?」
 すぐに、抱きかかえていた2人を見た。侑胡ちゃんはぼうぜんとして、侑杏ちゃんはむせていた。
 「生きている」
 侑胡ちゃんのほっぺをたたいた。倒れた冷蔵庫の上に2人を下ろした。
 「生きなきゃ。行かなきゃ」
 侑胡ちゃんの手をつなぎ、侑杏ちゃんを抱きかかえた。外に出ると、必死に駆けた。高台にたどり着き、振り返ると家々が浮いていた。

■日常ってすごく幸せ
 13日、避難所の県立山田高校の体育館に宗史さんが駆けつけ、2人の娘を順番に抱きしめた。この日、侑杏ちゃんは3歳の誕生日を迎えた。「生きててくれて本当によかった」。生まれた時間の午前1時10分、朋美さんは、眠る侑杏ちゃんのほっぺに何度もキスした。
 3人は避難所で数日過ごし、現在は八戸市の実家に身を寄せている。パソコンを開き、インターネットの交流サイトを見ると、安否を尋ねるメールが数えられないほど届いていた。みんなに向け、メッセージを書いた。
 「あのね、日常ってすっごく幸せなことなんだよ。もう駄目だって諦めたけど、今こうして私たちは生きていて、温かい食事をいただいて、足を伸ばして寝ることができます。なにより、隣に、侑胡と侑杏がいる。命があって思うこと。みんな、大好きです。ありがとう」
 アパートの壁の時計は午後3時21分で止まっていた。地震の発生から35分間の出来事だったことが後でわかった。(坂本泰紀)
(朝日新聞 2011年3月29日10時5分)


市議の「遺言」、非常通路が児童救う 津波被害の小学校
http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290249.html

 岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。
 海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。
 「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。
 親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。
 平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。
 11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。
 市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。
 非常通路から避難した児童の中には、平田さんの3人の孫もいた。平田さんの長男、大輔さん(38)は「人の役に立った最後の仕事に父も満足していると思う。小学3年の息子にも、大きくなったら話してやりたい」と語った。(其山史晃)
(朝日新聞 2011年3月29日17時6分)


此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110329-OYT1T00888.htm

 「此処(ここ)より下に家を建てるな」――。
 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。
 「高き住居は児孫(じそん)の和楽(わらく) 想(おも)へ惨禍の大津浪(おおつなみ)」
 本州最東端の●ヶ埼(とどがさき)灯台から南西約2キロ、姉吉漁港から延びる急坂に立つ石碑に刻まれた言葉だ。結びで「此処より――」と戒めている。(●は魚へんに毛)
 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。
 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。
(読売新聞 2011年3月30日07時22分)


東日本大震災:2台の大型カートで難逃れ 石巻の保育所
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110329k0000e040013000c.html

 宮城県石巻市長浜町の「市立はまなす保育所」では、職員が幼児を大型カート2台に乗せて津波から逃げた。海岸から約50メートル離れた保育所は大津波で壊滅したが、幼児8人と職員17人は無事だった。「幼い子供のよちよち歩きでは津波が到達する前に避難場所に着かない」と用意したカートが小さな命を救った。
 地震が発生した11日、保育所では0~6歳の幼児約70人の大半が午後の昼寝の時間だった。強い揺れに襲われると日野ゆり子所長(58)は、布団をかぶって身を守る幼児に「大丈夫だよ」と声をかけ安心させた。
 揺れが静まると、十数分の間に保護者が次々と迎えに来たが、1~5歳の8人が残った。町内では大津波警報の発令を知らせる防災無線が鳴り響いていた。日野所長は保育所から約500メートル離れた渡波公民館に避難することを決断。職員はパジャマ姿の子供に防寒着をかけると2台の大型カートに分けて乗せ、パンと牛乳を一緒に積むと、公民館まで走りながら押した。公民館2階に子供と職員が避難した直後、階下に津波が押し寄せた。
 保育所には以前から大型カート1台があり、09年9月の避難訓練で公民館まで避難した際、0~1歳児を乗せたが、2歳児は走るしかなく、避難に時間がかかっていた。このため日野所長がもう1台の購入を市に繰り返し要請。市が10年春に購入して配備し、普段は子供たちの散歩の際に使っていた。
 「海が近いので職員や保護者らの頭の中には津波のことがある。避難できたのは訓練の成果。みんなの行動が早かった」と日野所長は振り返る。命を救った2台の大型カートは今、救援物資などの運搬に活躍している。【須藤唯哉】
(毎日新聞 2011年3月29日 10時19分)


手作り避難所、70人救った 10年かけ岩山に 東松島
http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290226.html

 「津波なんてここまで来るわけがない」。そう言われながら、約10年がかりで岩山に避難所を造った男性がいる。700人以上が死亡した宮城県東松島市で、この場所が約70人の命を救った。
 東松島市の野蒜(のびる)地区。立ち並ぶ高さ30メートルほどの岩山の一つに階段が彫られ、登り口に「災害避難所(津波)」と書かれた看板があった。お年寄りでも上れるように段差は低く、手すりもある。平らになった頂上には、8畳の小屋とあずま屋、海を見渡せる展望台が立てられていた。
 近くに住む土地の所有者、佐藤善文さん(77)が10年ほど前から、退職金をつぎ込んで1人で造った。「避難場所は家からすぐの場所になくちゃってね」。住民には「佐藤山」と呼ばれていた。
 地震があった11日、佐藤さんが4人の家族と犬を連れて登ると、すでに40人ほどがここに避難していた。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響いた。
 いったん波が引いたあと、「第2波には耐えられない」とさらに人がやってきた。「線路の辺りで波に巻き込まれた」という傷だらけの男性など4人も流れ着き、避難した「佐藤山」の人々が棒を差し出して引っ張り上げた。避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かした。
 夜が明けると、1960年のチリ地震による津波でも床上浸水だった周辺は、流失した家屋やがれきで埋め尽くされていた。避難した遠山秀一さん(59)は「『ここには大きな津波は来ないよ』と佐藤さんの作業を半ば笑って見ていたけど、先見の明があった」と感謝する。
 一方、周辺では指定避難場所も津波に襲われ、多くの人が犠牲になった。佐藤さんはこれまで「大きな津波は、建物ではダメ。高台に逃げるのが鉄則」と市に訴えたこともあったが、「佐藤山」は指定されなかった。
 佐藤さんは「老後の道楽も兼ねて造った避難所で一人でも多く助かってよかった」と喜ぶ一方、「もっと多くの人に『ここに逃げて』と伝えられていれば」と悔しさもにじませる。
 「佐藤山」には、もともとあった山桜のほか、しだれ桜や数々の山野草が植えられている。津波に襲われた登り口付近の梅の木は、地震後に白い花を満開にさせた。「早く平和な日常が戻るように」。佐藤さんは、様変わりした野蒜地区を見てそう祈っている。(木下こゆる)
(朝日新聞 2011年3月31日3時0分)



ニュース | 【2011-03-31(Thu) 16:22:27】
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